人は運動すべく生まれついている!? ~運動と脳・遺伝子~ 東洋医学研究所®グループ 二葉鍼灸療院 院長 田中 良和

平成24年9月1日号

  ◇ 太古の昔より受け継がれている遺伝情報 ◇
   生物学者 ベルント・ハインリヒは、著書『アンテロープを追う:走ることと生活について動物がわたしたちに教えてくれること』のなかで、人類を「持久力のある捕食者」と評しています。今日の私たちの体を支配している遺伝子は10万年以上前に進化したものであり、その頃の人類は絶えず動き続けていました。食べ物を探し回ったり、何時間も何日もかけて平原でアンテロープを追ったりしていました。ハインリヒによれば、アンテロープは哺乳類の中でも最も足の速い種のひとつですが、私たちの祖先はそれを狩ることができたそうです。どうやって? 逃げる力がなくなるまで後を追い続けたのです。アンテロープは短距離走者で、その代謝系では、いつまでも走り続けることはできません。しかし、人類にはそれができます。私たちの筋肉繊維は収縮の速いもの(速筋繊維)と遅いもの(遅筋繊維)がバランスよく組み合わされているので、延々と野山を越えたあとにも、一気に走って獲物を仕留めることができるのです。

 もちろん今日の文明社会では、生きるための直接的な採集や狩りをする必要はありません。しかし、私たちの遺伝子には狩猟採集の様式がしっかり組み込まれていて、脳がそれを司るようになっています。従って、その活動(運動)をやめてしまうと、10万年以上にわたって調整されてきたデリケートな生物学的バランスを壊すことになります。簡単に言ってしまえば、体と脳をベストな状態に保ちたいなら、古来より継承されてきた代謝システムを使うべきだということです。DNAに刻み込まれた古代の活動は、おおまかにウォーキング、ジョギング、ランニング、全力疾走(短距離走)に置き換えることができます。そして、この祖先が残してくれた日常の活動を真似することが健康に繋がります。つまり、毎日、歩くかゆっくり走るか、週に2・3回は走り、時々は全力疾走で獲物を追う?!のです。

◇ 千里の道も一歩から ◇
 運動を行う際、肝心なのは、"何かをする""始める"ということです。当たり前に思うかもしれませんが、座って過ごすことの多い人、仕事で体を動かす時間のない人には、最初の一歩が最大の難関となるでしょう。運動を始められないのは、エネルギーが湧かないからで、エネルギーが湧かないのは、運動しないから...というわけです。「暑いので、涼しくなってから運動します」「時間ができたら運動します」など、運動できない理由はいくらでも作れますが、まず、「始める」こと、それ自体をひとつの挑戦として、乗り切ることが肝心です。
 個人差はありますが、誰かと一緒に運動する方が続けやすいということは、十分、立証されています。友人あるいは夫婦で一緒に走ったり、グループでサイクリングしたり、あるいは隣人とウォーキングしたり、どんな形でもかまいません。脳への神経学的メリットは、人と一緒に運動するとより大きくなることが、いくつもの研究で明らかになっています。

 これまで運動をしてこなかった人であれば、ウォーキングから始めることをお勧めします。また、日常生活の中に運動を取り入れる工夫も大切です。エレベーターに乗る代わりに階段を使い、駐車場では車を最も遠い場所に停め、ランチタイムには近所を散策しましょう。

◇ ウォーキング(歩行)でみる運動効果 ◇
 健康になっていく過程は、有酸素運動の土台を築いていく過程です。心臓と肺を鍛えれば、より効率的に体と脳に血液を介して酸素を送れるようになります。血流が増すと、当然ながら連鎖的に化学反応が起こり、セロトニン、脳由来神経栄養因子(BDNF;神経細胞の発生や成長・維持・修復に働き、さらに学習・記憶・情動・摂食・糖代謝などにおいて重要な働きを行う物質)、その他の栄養因子が生成されます。

 1日1時間、最大心拍数の55~65%でウォーキングを始めれば、徐々に歩ける距離は自然と延び、次第に健康になっていくでしょう。このような低強度の運動では、脂肪が主に燃料として燃やされ、代謝が盛んになります。体の脂肪が多すぎると、筋肉はインスリン抵抗性(血液中の糖分を筋肉細胞に吸収するために必要なインスリンが働かず、エネルギー代謝が滞る)となり、そのせいで脂肪がますます蓄積し、インスリン様成長因子(IGF‐1;肝臓で産生され、インスリン様作用の他、細胞の成長・発達、DNAの合成調整の働きがある)の生産は減少します。低強度の運動は、このようなインスリン抵抗性の改善にも効果があります。その他にも、血流中の遊離トリプトファンを脳へ送り込む働きを助長します。トリプトファンというタンパク質は、気分を安定させるセロトニンの原料となる物質です。また、このレベルの運動でもノルアドレナリンやドーパミンの配分も変化します。太古の昔、獲物を追跡している間、私たちの祖先は、忍耐強さ、楽観性、集中力、そして、やる気を保ち続ける必要がありました。それらの心理状況は、すべてセロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンの影響を受けるのです。

 会話が続けられるギリギリのペースで1時間歩けるようになったら、中強度(ジョギング)の運動プログラムを加える準備ができたことになります。このレベルに挑戦していくうちに、運動している時だけでなく、生活のあらゆる面で、より多くのことができるようになるでしょう。活力やエネルギーが増加し、悲観的な見方をしなくなり、自分をよりコントロールできているように思えてきます。なんと言っても、活発に動けるようになると、家の中でじっとしていられなくなり、社会と多くの繋がりを持つように、心も体も積極的になっていくでしょう。機会があればジョギングやランニングについてもお話したいと思います。

◇ やり通すこと! ◇
 ある統計によると(アメリカです)、運動を習慣にしようとした人の約半数は、半年から1年以内にあきらめてしまうという報告があります。これは日本にも、自分にも?!あてはまるかもしれませんが、最大の原因は、いきなり激しい、高い強度の運動を始めてしまうところにあります。体にも心にも無理が生じ、結局、投げ出してしまうのです。運動において、有酸素主体から無酸素主体に移行する時にどう感じるかは人それぞれですが、その境界を超えると、ほとんど全員が心理テストではマイナスの感情を報告します。主に疲労感による主観的運動強度指標では高い点数をつけたという報告があります。この状態は、脳が緊急事態として警戒を促すため起こります。運動を続けるために気をつけるべきポイントは、最初から無理に激しい運動を取り入れたりせず、低強度の運動でも不快な気分にならないようにすることです。運動効果がアップしなくても、やめるよりは、低強度でも続けて行ったほうがはるかにプラスになります。

 運動をする時の感覚が楽しめるか、一度始めたらやり通せるか、運動をして気分が劇的によくなると感じるか、などは遺伝が影響していることが分かっています。これに関わりのある遺伝子は多いのですが、研究者が注目するのは、報酬とやる気に関わる神経伝達物質であるドーパミンに関与する遺伝子と、BDNFの生成をコントロールする遺伝子です。ドーパミン遺伝子の変異をもつ人は報酬不全症候群の可能性があり、スポーツジムで他の人が経験しているはずの強烈な快感を味わうことができません。また、もしBDNFの信号が切れていたら、気分を良くする運動メカニズムは上手く働きません。
 その反面、運動をするとドーパミンの量が増え、しばらく定期的に続けると、脳の報酬中枢にある神経細胞が新たなドーパミン受容体を生み出し、さらに運動しよう!という動機が芽生えてきます。新しい神経回路が作られたり、しばらく使っていなかったため錆びついた経路が磨き直されたりし、ほんの数週間で一つの習慣が根付きます。このことは、誰でも、行動を起こすことにより、脳の配線をつなぎ直すことができるということです。子どもの頃のように簡単にいかないけれど、確かに可能なのです。

 これはドーパミンだけでなく、BDNFについても言える事実です。カリフォルニア大学アーヴィアン校で脳老化・認知症研究所を運営する神経科学者カール・コットマンは、海馬がBDNFを作るため「分子記憶」と彼が呼ぶものを持つことを発見しました。彼は3ヶ月にわたって、様々な運動を習慣づけたラットを、隔日運動と毎日運動のグループに分け、BDNF濃度を測定しました。その結果、毎日運動は隔日運動より急速にBDNFを増やしました。2週後、毎日運動したラットは150%、隔日では124%増加。ところが、不思議なことに、1ヶ月経つ頃には隔日運動したグループが毎日運動したグループに追いつきました。ラットが運動をやめると、どちらのグループもわずか2週間でBDNF濃度は元に戻りました。しかし、最も興味深い発見は、ラットたちを再び回し車に乗れるようにすると、たった2日でBDNF濃度が高レベルに戻ったことです。これをコットマンは「分子記憶」で説明しようとしました。つまり、以前、定期的に運動していた人の海馬は、運動を再開すると急速にその活発な状態に戻ることができるということです。
 コットマンは、毎日運動できればベストだが、休み休みでも運動すれば驚異的な効果があると結論しました。数日間、あるいは1~2週間、運動ができなくても、再開した翌日には、海馬はBDNFをどんどん生産しています。そう想像して運動してみると楽しくなるかもしれません。

◇ 歩くことで形成する、聴く・学ぶ心構え ◇
 江戸末期、幕末の志士と呼ばれる人々は驚異的な距離を歩きました。この時代、優れた人物に出会い、学ぶためには、長距離を歩く力が必要でした。坂本竜馬も土佐藩を脱藩し江戸まで歩いてきています。この膨大な距離を歩く中で何を考え、思い描いていたのでしょうか。
 また、こちらも幕末、松下村塾で有名な吉田松陰などは、学ぶ意欲の旺盛な人物(諸国を歩きまわる?!)として典型的な人物です。以下に司馬遼太郎『世に棲む日日(一)』(文春出版)より抜粋します。

 「どのような旅をしたか。むろん暗いうちに提灯をかかげて城下を発った。械ヶ坂というところで夜明けを迎え、そのあとほとんど休みなく歩き、途中かぞえきれぬほどの峠を越えて夕刻、四郎河原という第一日目の宿泊予定地にたどりついたというから、四十八キロ(十二里)歩いている。はじめての旅で気負いたっていたからでもあるが、この当時、東海道を旅する者は、一日七里(二十八キロ)というのが常識だったから、ほとんど無茶と言っていい激しさである。
 が、激しく歩くことが、道中経済の一つであった。貧者ほどそのようにして歩いた。全行程において一晩でも二晩でも宿泊費を切り詰めねばならなかった。
 途中、立小便をする。その時間は二百歩の損がある。松陰はいつもその損を取り戻すため、そのあとほとんど駆けた。しかし、走りはしなかった。武士というものは走るものではないとしつけられている。」

 何日も時間をかけて歩き続けるうちに、志を練ることもできたでしょう。そして、自然と、素直に、一所懸命に聴き、学ぶ心構えが深まっていったのではないでしょうか。
 東洋医学研究所®グループで行われる鍼治療(生体制御療法)は、生体内に有する各種調整機構を正常にリセットすることを目的とした治療方法です。これにより、本来の自分の体を治そうとする力が目を覚まし、正常な状態へ促します。しかしベースは、心身に良好な食事や運動などの生活習慣を心がけ、積極的に行うことです。鍼治療と正しい生活習慣を行うことで、人間本来の姿である、幸せになれる心身の状態(健康)を目指して頂きたいと思います。
 さあ、まず第一歩を踏み出しましょう! 歩くと、きっといいことがありますよ!!

文 献
 ・「脳を鍛えるには運動しかない」 ジョンJ.レイテwithエリック・ヘイガーマン 著  NHK出版
 ・「身体感覚を取り戻す」 斎藤 孝 著  NHKブックス
 ・「脳と運動-アクションを実行させる脳」 丹治 順 著  共立出版
 ・「脳由来神経栄養因子(BDNF)の役割と運動の影響」 野藤 悠 ほか 健康科学vol.31,2009.3.